αM+は、1988年の設立から続くゲストキュレーターによる年間企画と並走する形で、gallery αM が2019年に立ち上げたもうひとつの企画です。過去には近年のアートコレクティブといわれる様々な形態の動向を受けて、「国立奥多摩美術館」「わたしの穴 美術の穴」の2組を紹介しました。その後、馬喰町からのスペース移転に伴い休止していましたが、2026年より隔年で1本の展覧会を開催していきます。本企画では、αMプロジェクト運営委員会が以下のような意図をもとに作家を選定し、個展として紹介します。
・「継続的」で「地に足をつけた」活動を続ける作家(世代は問わない)
・過去に gallery αM で発表経験のある作家(その限りではない)
・上記を踏まえて、運営委員会/gallery αM がいま見せたい作家
大学は、卒業後の活躍を約束する養成所ではありません。社会において自分の造形、自分の方法を組み立てていくための基礎を伝え、考える場所です。結果としてすぐに活躍のできる卒業生もいます。それも大事なことですが、その基礎である自身の造形の体幹をつかみ、問い続け、どのような状況でも制作を続けていける。そういった人材を育てる場所であることが大学の目的ではないかと考えます。αM+は、美術大学が運営するギャラリーとして、以上のような考えに基づいてリスタートします。
αMプロジェクトディレクター 冨井大裕
彫刻が通るところ 沢山遼
上村卓大は、彫刻と呼ばれる概念に深刻な動揺をもたらすことによって、彫刻の核心部に触れ続けてきた作家である。上村の彫刻は、しかるべき技術、段階的な物質の組成、強い確信に支えられた構成能力によって造形される物体である。が、彼にとっての彫刻とは、物体としてのプレゼンテーションそれ自体のことではない。上村の彫刻は、物体としてのあり方を突き抜け、物体が存在することの根拠のなさこそを露呈させる。そこでは、物体としての彫刻が肯定されると同時に否定されている。観る者は、見慣れたはずの物体の見慣れぬ姿に困惑することになる。
彫刻をつくることはまず、世界のなかに一定の空間の量をもたらすこと、それがある特定の空間を占有することである。巨大なFRPの円筒形の彫刻《lung》は、その内側を空洞にしている。会場には、それが2個ならぶ。上村によれば、人が一日に呼吸する量は約10〜15m³(10,000〜15,000リットル)であり、円筒形2個でおよそ4人分が呼吸する空気がそこに詰まっている。とすれば、そこに現前するのは、人が吐き出し、吸い込む空気の量そのものである。彫刻が物質の塊(マッス)ではなく、空間の嵩張り(ヴォリューム)であるならば、この彫刻が指し示すのは、空間の嵩張りとしてのヴォリュームそのものである。
この彫刻がある場所から別の場所に移動することは、この空気の量が移動することである。同時に、私たちの呼吸する空気もまた、身体の内部と外部をいったりきたりしている。彫刻は、そのようにたえず移動する空気の嵩張りを捉え、それを彫刻のヴォリュームへと変換する。
このとき彫刻のヴォリュームは、物体として固定することができず、また可視化することも、ある場所に留めおくこともできないなにかとして捉えられている。彫刻は、この見えない、たえず移動しようとする空間の嵩張りを一時的に捉える装置としてある。これが「lung」すなわち肺であるならば、そこに認められるのは、人体から出し入れされる空間の塊それ自体が彫刻であるという認識である。
ミケランジェロの彫刻もまたそのようなものであったのかもしれない。ネオプラトニズムを背景とするミケランジェロの彫刻にあって、とりわけその奴隷像に顕著なように、人体は魂を幽閉する牢獄であり、魂はそこから逃れようともがく。ミケランジェロの肉体のもだえ、ねじれは、内部に幽閉された魂とその外殻との葛藤、力の干渉として与えられている。つまり、そこにあるのは、内側から外に拡張しようとする力と、それを外側から押し込めようとする力の葛藤である。肉体とは魂の容れ物=コンテナーである。このコンテナー(外殻)とコンテンツであるところの魂の遭遇・葛藤を通して、彫刻のヴォリュームが形成される。
上村の前作は、金網の内部に野菜が詰め込まれた野菜販売機であった。誰でも、そこに百円を投げ込めば、野菜を買って持ち帰ることができる。同時にそれは、内部空間をもって野菜を幽閉する金網のヴォリュームでもあった。だからその内部に野菜を詰め込むことができるのである。その装置を通して野菜を買う。その野菜はいずれ胃袋へと流し込まれる。魂を幽閉する石の塊が彫刻であるならば、同様に、空気の入った肺、食べ物によって膨らんだ胃もまた、彫刻である。
四〇歳の成人ならば、これまで300トン以上もの空気、食物、水を吸収してきたことになる。それらは一時的に肉体に係留し、やがて離れていった。そこを通過した膨大な数の原子は、部分的に肉体の一部として残り、そのほかのものは、いまも宇宙空間のどこかに存在しているはずである。肉体とは開口部であり、出入り口である。彫刻が対象とするものが身体であるなら、その身体の背後には、300トン以上の嵩張りが存在している。
いずれにせよそこでは、たえず別の場所に移動しようとする空間の嵩張りこそが彫刻であると捉えられているかのようだ。ある会場に固定電話の回線を引く《「〈0927535225〉もしくは〈スカスカのオブジェ〉」》(2024)もまた、これと同様の運動系を共有している。電話回線を引くことは、既存の空間に新たな回路を開くことであり、そこに別の空間が侵入することである。鑑賞者は会場から自分の携帯電話に電話をかけ、着信履歴を残す。その着信履歴もまた彫刻である。NTTとの絶え間ない交渉を通して、ある場所に固定電話を敷設しようと奮闘する作家の行為は、そこに新たな回路を開くための制作そのものである。そのとき彫刻は、対象とその外部を丸ごと呑み込むことによって形作られる。トポロジカルに異なる二つの位相を同時に包含する一つの位相を指し示すこと。そこにある空間の嵩張り。私たちはそれを彫刻のヴォリュームと呼ぶ。
それは突如として出現し、また別の場所に逃げ去っていく。上村は、自らがもちうるあらゆる手段と技術を使い、それを彫刻として現前させる。

息をする/ように 上村卓大
福岡に生活を移して十年余りになります。今は、自宅から車で一時間ほど離れた、筑豊のボタ山のそばに工場を構えて、仕事と制作をやり繰りしています。電車やバスでのアクセスがとても悪いところなので、仕事以外で顔を合わせるのは、犬の散歩で通りかかる近所のお年寄りぐらいです。
ともあれかくもあれ、日々の生活の中で、〈制作〉が二の次三の次になるのはいつものことです。むしろこの年齢になると、さまざまに束縛された状況の軋みがあるからこそ、そこに〈自由〉を見出そうとする〈制作〉のような行為が可能なんだとも思っています。
自分が思い描く〈彫刻〉のかたちにとって〈自由〉であることはとても大きな課題です。それは、好き勝手やることとも、声を上げることとも少し異なります。強いて言えば、声を出している時には忘れてしまっている、息をするようなことから始められるかどうかに関わっています。あえて息をすることのぎこちなさと同じように、自分にとって〈制作〉とは、わざわざそうしないことには起こり得ない、白々しくて不自然な出来事なのです。
少し前に発表した、両替機を使った作品や、野菜や果物を使った作品も、そういう意味では嘘みたいに思えることから始まっています。両替機の作品では、鑑賞者が両替(等価交換)をする度に、その彫刻(両替機)の重さが少しずつ吐き出され、やがて蒸発していきます。野菜や果物の方は無人販売所のかたちをとっており、壁に留め置かれたレリーフのボリューム(色や形)を担うそれらが、いくらかの百円硬貨と等価交換され、おそらく食材になっていきます。起こっている出来事は普段と変わりないことですが、別の視点からは、まるで自然現象を拡大縮小したり、物事の変化を促成したり抑制したりして得られるような個別の様相が見えてきます。言い方を変えれば、〈制作〉の面白さは、この場所を透明に見せている〈今〉に、不透明な区切り(タイミング)を入れることのように思います。
今、用意している底の抜けた二つの容器《lungA,B》も、区切り(タイミング)の産物であるのは間違いないと思っています。しかし、これがどこを起点に計画されたのかという明確な由来はありません。空間的には開いているけれど、視覚的には覗くことのできない閉じられたボリュームの大きさは、形態の問題に限らず、自分自身の金銭的そして時間的制約が下敷きになっているのは明らかです。オーバル状になった上からのシルエットは、かまぼこのような半円形の天井材の型を再利用し、円形に繋げて横に倒したもので、積み上げられた二つの高さもそれぞれの型の大きさに起因しています。また、制作を始める段階で、この作品が galleryαM の展示室に入りきらないことも分かりました。結果として部分的にダミーで代用し、押しこめられたものが一旦ここでの決着となります。
この作品を成り立たせるいろいろとチグハグで他律的な条件に、始まりや終わりがあるようには思えません。改めて自分自身も変数のひとつなんだと実感します。一方出来事は、まるで逆行するスティックボムのように一息で与えられていたとせよ、と言いたげに見えます。
上村卓大 Takahiro Kamimura
1980年高知県生まれ、福岡県在住。
αMプロジェクト2025‒2026
αM+ vol. 3
上村卓大 息をする/ように
会期:2026年3月7日(土)〜3月28日(土)
休:日・月曜、祝
時間:12:30〜19:00
会場:gallery αM
住所:東京都新宿区市谷田町1-4 武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパス2階
電話:03-5829-9109
料金:入場無料
https://gallery-alpham.com
*アーティストトーク
上村卓大、沢山遼(美術批評)
日時:3月28日(土)17:00〜18:30
- JR中央線・総武線「市ケ谷」駅・出口1、または東京メトロ有楽町線・南北線「市ケ谷」駅・都営地下鉄新宿線「市ヶ谷」駅・出口4を出る
- 出口1からの場合は左へ、出口4からの場合は正面へと進む(建物の屋上の看板に「TKP」とある方へ)
- 線路、外濠を下方に見て直進
- 「市谷見附」の交差点に突き当たり、「くすりの福太郎」「富士そば」の方に横断歩道を渡ってから右折
- 「モスバーガー」「マクドナルド」「ファミリーマート」を通過してすぐ左側にgallery αMが入っている「武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパス」
- ギャラリーの入口は「MUJI com」店内の階段を上がった先の2階。徒歩3分。
MUJI com店舗から入場、左手の自動ドアから武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパスのエントランスへ。インターフォンにてスタッフに連絡。スタッフが解錠したゲート(右)から入場、エレベーター(右)へ。2階のエレベーターホール扉をスタッフが解錠、αMへ(※電話でのご連絡の場合、スタッフが1階に下りてご案内)。ベビーカーの方なども同様。
