指の先にある月を見るために
大槻晃実
先日、親族の法事で住職から「指月」の話を聞いた。月を指し示す指ばかりを見て、その先にある月を見失うことへの戒めである。言葉や形式は真理へ至るための手段であって、真理そのものではないことを説いてくれた。
その話を聞きながら私は、柳瀬安里の作品を思い出していた。
柳瀬はかつて《線を引く(複雑かつ曖昧な世界と出会うための実践)》(2015–2016)において、安全保障関連法案に反対するデモが行われているすぐそばで、国会議事堂の周囲を歩きながらチョークで線を引いた。機動隊が動員されたその場所で、白い線を引く行為を警察に制止されると、今度は指で線を引くことにした。柳瀬のその行為は、線の先にある、さまざまな境界によって構築されてきたこの世界の在り方を見せようとするものだったのだろう。指は何かを指し示すが、それ自体が目的ではない。
柳瀬の作品はこれまでも、ある場所で起きている出来事をそこだけに閉じた問題として扱うのではなく、その背後にある見えにくい力や、見る者が無意識に受け入れている枠組みを浮かび上がらせてきた。東日本大震災と福島第一原子力発電所事故を扱ったエルフリーデ・イェリネクの戯曲を、沖縄県東村高江のヘリパッド建設反対運動の現場で暗唱しながら歩く映像作品《光のない。─私の立っているところから》(2016–2017)には、その姿勢が表れている。
本展で柳瀬が向き合うのは、イェリネクの戯曲『汝、気にすることなかれ シューベルトの歌曲にちなむ死の小三部作』第一部「女魔王」(2006)である。死した人気女優は、見えないけれど確かにそこにあり、人々へ大きな影響を与え続ける「権力」について語る。柳瀬は、モニター越しに聖火ランナーの姿を見たとき、その台詞の主をオリンピックとして読むことができるのではないかと考えたという。
1964年の東京オリンピックは、戦後復興と高度経済成長を象徴する国家的な祝祭として記憶されている。そして2021年に開催された東京オリンピックには、「復興五輪」という言葉とともに、東日本大震災からの再生や未曾有のパンデミックを乗り越えた先にある希望が重ね合わされ、新たな物語が語られた。
だが、その物語を語っているのは誰なのだろうか。
オリンピックは、世界平和や復興、希望といった価値を体現する象徴として語られる一方で、勝敗やメダル獲得数への熱狂、国家による競技力向上政策、ジェンダーをめぐる議論など、さまざまな立場や思惑も交錯している。私たちが目にしているのは競技そのものなのか、それともオリンピックをめぐって繰り返し語られてきた物語なのか。さらに言えば、その物語を成立させている、より大きな力の存在を見落としてはいないだろうか。
柳瀬の作品は、オリンピックへの賛否を問うものではない。むしろ、オリンピックという巨大な象徴を手がかりに、それを支えている価値観や制度、記憶や欲望の構造へと私たちの視線を導こうとする。そのとき目の前に現れるのは、一つの出来事ではなく、それを成立させている複雑で曖昧な世界そのものなのかもしれない。
本展が、私たちが信じ、支え、ときに熱狂してきた価値や正しさをあらためて見つめ直し、その先に何があるのかを、それぞれの眼で確かめる場となることを願っている。

使用テクスト:エルフリーデ・イェリネク『汝、気にすることなかれ シューベルトの歌曲にちなむ死の小三部作』(翻訳:谷川道子)
『汝、気にすることなかれ』より「女魔王」
柳瀬安里
エルフリーデ・イェリネクの戯曲『汝、気にすることなかれ シューベルトの歌曲にちなむ死の小三部作』から第一部「女魔王」と向き合う。
戯曲の登場人物であり、観客の人気者である女優は、死してもなお延々としゃべり続ける。たとえば、こんなふうに──「権力というのはいつでも自らに権限を与えるもの。でも、私に権限を与えてくださったのは皆さんなのよ」。あるいは──「私たちって権力の芸名なの!」*
聖火ランナーが走る姿を見たとき、オリンピックならこの台詞の持ち主になれるのではないかと思った。それがこの作品のはじまりだった。オリンピックにはさまざまな役割が与えられている。このテクストをオリンピックに当てがったとき、オリンピックはもうその役割を終えたがっているのではないかという気がしてきた。オリンピックに輝きを与えるのがわたしたちであるなら、オリンピックをそれらの役割から解放することができるのも、わたし(たち)なのではないか。わたし自身も、テレビの前でオリンピックに熱中したことがある。
* エルフリーデ・イェリネク『汝、気にすることなかれ シューベルトの歌曲にちなむ死の三部作』(谷川道子訳)論創社、2006年、14, 22頁。
柳瀬安里 Anri Yanase
1993年埼玉県生まれ。身の回りの出来事を出発点とし、それに対するひとつの反応として作品を制作。作品制作は、社会における自らの立ち位置を知るための方法であり、社会と関わるための方法だと思っている。
プレスリリースより抜粋して転載
立ち止まり振り返る、そして前を向く
大槻晃実(芦屋市立美術博物館)
この場所で私に何ができるのだろうか。最初に考えたのはそのことだった。私は公立美術館で学芸員として働いている。だが、指定管理者が運営する美術館であるため、公務員ではなく会社員だ。コレクションが健康な状態で受け継がれ、これから先も美術館が存続していくという未来は、決して当たり前のことではない。大切にしていくべきこと、守らなければならないことには多様な視点や局面があり、それがちぐはぐに組み合わさった居心地の悪さが常に同居している。
そんな学芸員が、このαMという場所とどう向き合えばよいのだろうか。各地の美術館が様々な事情を抱え、困難に直面している。それは今もこれからも変わらないだろう。しかし、たとえどのような運営形態であっても、誰が運営者であっても、美術館にはかけがえのないものがある。それは、その美術館の歴史に寄り添いコレクションから刺激を受けながら展覧会を企画してきた歴代の学芸員や、地域や行政との間で試行錯誤しながら運営に関わってきた職員が経験を蓄積してきた場所であり、観客が作品と出会って思いを深めた展示室という場所だ。
30年以上にわたって時代の先端を敏感に察知して活動を続けてきたこのαMという場所では、作家がいて作品があり、鑑賞者が集い、対話や議論が重ねられる日々が続いてきたことだろう。そんな場所の過去と現在を往来しつつ、作品との対話の中から鑑賞者が自ら問いを立てて答えを探るような、そしてそれを皆で共有できるような場を作りたいと思う。参加してくれる作家たちと議論を重ねながら、歴史と今この時の美術を同じ次元でとらえることで、「美術のための場所」のことを皆で共に考えていく2年間にしたい。
自ら考えるという行為を続けることこそが、この社会で美術を健全に存在させていくためには不可欠であるはずだから。
大槻晃実 Akimi Otsuki
芦屋市立美術博物館学芸員。専門は近現代美術。企画した主な展覧会に「今井祝雄―長い未来をひきつれて」(2024年)、「art resonance vol. 01 時代の解凍」(2023年)、「限らない世界/村上三郎」(2021年)、「植松奎二─みえないものへ、触れる方法―直観」(2021年)、「芦屋の時間 大コレクション展」(2020年)、「美術と音楽の9日間 rooms」(2020年)、「art trip vol.03 in number, new world / 四海の数」(2019年)、「小杉武久 音楽のピクニック」(2017年)などがある。
プレスリリースより転載
αMプロジェクト2025–2026
立ち止まり振り返る、そして前を向く
vol. 7 柳瀬安里|『汝、気にすることなかれ』より「女魔王」
ゲストキュレーター:大槻晃実(芦屋市立美術博物館)
会期:2026年9月19日(土)〜11月21日(土)
休:日・月曜、祝
時間:12:30〜19:00
会場:gallery αM
住所:東京都新宿区市谷田町1-4 武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパス2階
電話:03-5829-9109
入場料:無料
https://gallery-alpham.com
使用テクスト:エルフリーデ・イェリネク『汝、気にすることなかれ シューベルトの歌曲にちなむ死の小三部作』(翻訳:谷川道子)
*アーティストトーク 柳瀬安里、大槻晃実
日時:9月19日(土)17:00〜18:30
- JR中央線・総武線「市ケ谷」駅・出口1、または東京メトロ有楽町線・南北線「市ケ谷」駅・都営地下鉄新宿線「市ヶ谷」駅・出口4を出る
- 出口1からの場合は左へ、出口4からの場合は正面へと進む(建物の屋上の看板に「TKP」とある方へ)
- 線路、外濠を下方に見て直進
- 「市谷見附」の交差点に突き当たり、「くすりの福太郎」「富士そば」の方に横断歩道を渡ってから右折
- 「モスバーガー」「マクドナルド」「ファミリーマート」を通過してすぐ左側にgallery αMが入っている「武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパス」
- ギャラリーの入口は「MUJI com」店内の階段を上がった先の2階。徒歩3分。
MUJI com店舗から入場、左手の自動ドアから武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパスのエントランスへ。インターフォンにてスタッフに連絡。スタッフが解錠したゲート(右)から入場、エレベーター(右)へ。2階のエレベーターホール扉をスタッフが解錠、αMへ(※電話でのご連絡の場合、スタッフが1階に下りてご案内)。ベビーカーの方なども同様。
