「展覧会のこと」

展覧会のこと 2026年7月

2026年7月3日(金)
入口付近の作品。布は枠に張られておらず、ぺらの一枚の布である。プリントされた布地にも見える。布には固有の厚みがある。そして、枠に張ったときにはどうしても生じてしまう作品の側面の厚みから逃れているように見える。布と絵具の厚みだけの状態で壁に配置されている。

 

 

石村実は「触覚性絵画」を探求している。作り手であるがゆえの概念ということなのだろうか、「見る」側の自分にはそれがなんなのか、まだわかっていない。それでも続けてこのひとの展示に足を運ぶことになる。
今回展示されている作品の多くは2026年の作と、掲示物には記されている。2点のみ、2022年から2026年、と記されている。その間継続して制作されたのか、数年を経て再び着手されたのかは不明。後者ではないか、と予想するが、事実はどうだかわからない。その2点の作品の表面に、鈍く暗い色がうっすらと覆っているような質感が見て取れ、それがまるであとから泥水でもかけられたかのように感じられた。
一方、その隣の壁には、鮮やかな色彩の作品。これまで見てきた作者の作品とは異なる印象。また別の壁には、色紙に色鉛筆などでスケッチしたような作品。樹木のある公園の風景として描かれることにより紙の上に発生したものを、見ている。

 

 

 

 

そのほかにも、作者の探求する絵が並ぶ。わたしも、触覚で、ほかの感覚で、作品との関係を模索したい。でもどうすればいいのかわからない。じっと、同時に歩きながら、視界のなかに置くことをする。
帰宅して、配布されていた冊子を読む。夏目漱石、柄谷行人、古田徹也の文章を引用し、美術や自身の絵画について考察した文章と作品図版で構成されている。この日記をしるしながら「触覚性絵画を軸に」と入力して、なんか違うと思って消した。「求心力」という語を仮設してその逆方向を想定する。絵画を探求するということ。でもそのなかでは試行がなされているのではないかということ。冊子には「……それまでの「絵画」の概念の「内部」から、生の世界である「外部」に触れることになるはずです」(「石村実展」配布冊子、p.8、2026年)という部分があった。

◆石村実展 会場:ギャラリー檜B・C(東京都・京橋) 会期:2026年6月29日〜7月4日

 

7月7日(火)
夕方目覚めてあわてて外出。神保町駅から歩いて猿楽町へ。ビルの階段をのぼって展示室に入る。小川浩子の展示。比較的ちいさな3つの光源による照明。うすぐらい空間に、まるで粒子が浮かんで揺れているようで、作品による影も、細かなものの凝集であるように、思える。上方から連なる、ところどころに黒く小さな玉をはらんだ糸状の長いもの。透き通っていてしなやかな様子は、テグスとは異なる質感を目に感じさせる。確かめると馬毛とあった。その後、弦楽器を演奏するための弓に使うものなのだと作者から聞く。黒く小さな玉は、松煙煤でできており、玉を思わせるが平たくつぶれている。垂れ下がった先は、床の上の台の上のジャムの瓶へと向かいながらはみ出している。その作品の右側の壁には、小箱に入るくらいのちいささの、馬毛と小玉の、個々独立した作品がいくつも針ピンで留まっている。

 

 

入口正面の壁には、4つの正方形が並んでいる。左端は、黒枠に綿布が張られたパネル。無数の黒い点状の痕跡が残っている。その右側は、その場所にほかと同様のパネルがあるのだが展示されていないこと、あったこと、を示唆する形跡。その右側は、黒枠に綿布が張られたまっさらのパネルでなにも痕跡のない状態。右端は、黒枠だけが、下部が壁からすこし浮いた状態で針ピンで留められている。室内を見まわし、壁には展示されていないパネルを見つけたことにより、その右側のまっさらのパネルの今後が推し量られる。一週間ごとに展示が変わるらしい。だが、右端の黒枠だけのパネルはどうなるのだろう?

 

 

壁には展示されていないパネルのところへ移動する。それは面を上にして水平の状態で台に設置されている。その上には瓶。瓶のなかには水。水には粉状の松煙煤が表面に浮いて水面を覆い、松煙煤の少量は水中に沈み漂っている。瓶の上方には、ひび割れのある別の瓶がひもと滑車でぶらさがっており、その瓶のなかの水がごく少量ずつひび割れから浸み出して瓶の底でしずくとなり、その下方の、松煙煤に覆われた水面に落下する。落下は数分に一回くらいだろうか。瓶の底のしずくは徐々に膨らんでいき、その膨らみがちいさなひかりを集め、耐え切れなくなって瓶底を離れる。その瞬間視線を下へと移動する。水面から跳ねかえる水滴とちいさな波紋が見えたような気がするが、それで落下の瞬間を見たことになるのだろうか。そしてそのとき、松煙煤を含んだ微細な飛沫が瓶の外へと跳ねて、パネルの綿布に黒い跡を残したはずなのだが、それを目視することはできなかった。上方の瓶の底からの次の一滴、その次の一滴。同じことが繰り返される。先に述べたジャムの瓶とこのひび割れのある瓶はともに、作者がマラソンに参加するためベイルートを訪れた際に購入したもの。

 

小川浩子「星取り法行路|wayfaring to the inner stars」 会場:The White(東京都・神保町) 会期:2026年7月7日〜7月25日

 

7月10日(金)
細木るみ子の展示。会場に入ってすぐに感じたのは、すでに目にしていた作品写真との違和。それは、写真がどうとか、実物がどうとかいうことではなく、壁が、照明が違う、作品をとりまく空間が実際にある、ということのような気がする。作品の画面が画像として平面的にそこにあるのではなく、作品とそれを前にするひととのあいだになにかがある。作品が単体ではなく、すべて数点の組作品として展示されているということも、関係があるのかもしれない。紙に鉛筆の作品と、背面に木枠のある縫い糸と白無地の布の作品。

 

 

 

会場内の掲示物に「線を重ねることよりも、どこで止めるかを考え続けた」という言い方があった。線。画面を観察すると、線という感じはせず、むしろ気体、煙、雲、砂、霜、埃、などのように、微細な粒子が一時的に集まって形象をなしているように見えた。鉛筆の芯の先端の運動。単線、連続して繫がる線、往復する線、など不可視の線を辿る。そのとき先端が紙に接触し、芯が削れて紙の上に残る。それを痕跡のように見たとしても、残されているのは作者の体内から出てきたわけではなく、つまり express されたものではなく、作者の生命を介して、紙と鉛筆が発生させたものである。「描いては消し、消しては眺める」と続く掲示物の文。画面からは、完全に消されたのであろう部分は判別できないが、不完全に消されたのであろうことが散見される。作品の側面を見ると、側面にだけ線描が残っていたりする。おそらく、描線は前面に続いていたが消されたのだ。またこのことから、当初は広げた紙に描画し、それをパネルに貼ったのちに、消すことも含む描画がさらになされたのではないかと推測する。そうだとしたらこの飛躍はなにを意味するだろう。描く。消す。眺める。作者の行為はいまだ途中なのかもしれない。「そうした往復のなかで立ち現れる状態を観察している」と述べて掲示物の文は終わる。とりあえず制作を停止し展示したとしても、それを見るひとがなんらかの受け取りをしたとしても、完結することなく作品は漂う。

 

 

糸と布の作品については、掲示物には言及がなかった。それらには「春分 Spring Equinox」という作品タイトルが付されている。折りたたまれた、白い、または生成りに近い色の布は、会場の壁の色や鉛筆による作品の紙の色と呼応していたかもしれない。鉛筆の黒色が、完了、定着、終焉などを仄めかさざるをえない触手であるとすれば、これらの布を行き来する糸の白はなんだろう。白のなかに消えていく線。白のなかの白。白のなかで白くある白。

 

 

◆細木るみ子展 際 会場:ギャラリー檜B(東京都・京橋) 会期:2026年7月6日〜7月11日

 

7月17日(金)
小川浩子の展示を再訪。二週目の展示を見る。入って右側の照明がひとつ増えて3つになっていた。合計4つ。また、奥の窓から外光が入るようになっていた。作品として変わったのは、正面の壁に4つ並んだ正方形のところ。先週、面を上にして水平の状態で台に設置されていたパネルが壁面の左から2番目に掛けられ、その右側にあったパネルがこんどは面を上にして水平の状態で台に設置され、すでに、松煙煤を含んだ水がはねて細かな点状の跡に多数覆われている。その上方のひび割れた瓶からは、浸み出した水がしずくとなって落下しているはずであったが、今回滞在しているあいだには一滴も落ちることがなかった。瓶のなかに水がすくなくなったためと思われる。しずくを受ける下方の瓶では、前回表面に浮いていた松煙煤はほとんどみられなかった。飛沫としてパネルへうつったか、水中へ沈んだか。馬毛の作品は、よく見ると松煙煤の黒い玉のところで複数の馬毛が接し、あるいは交差していた。長く垂れ下がっている作品の、ジャムの瓶からはみ出している部分は、ジャムの瓶のひび割れを通じて繫がっているのか、それとも、別途瓶の外に置かれているのか、判別できなかった。いずれにせよ、はみ出している馬毛は、松煙煤によるものだろうか、黒にまみれていた。

 

 

 

同日
ハン・ガンの『すべての、白いものたち』を買う。

 

7月20日(月)
『すべての、白いものたち』を読む。細子るみ子の糸と布の作品のイメージを頭のなかかどこかに置いている。
糸と布から質感というものを受け取る。それは視覚としてそうなる。つまりそこには距離がある。とても近づいたとしても。もしも手で触れたとしても、それは作者の手でありわたしのではない。わたしのではないわたしは表面だけ。まして、それに包まれることなど決してない。さわる、さわれる。さわらない、さわれない。

 

7月21日(火)
『すべての、白いものたち』を読む。雪、霧、氷、雲、波、光、カーテン、塩、白髪、霜、ろうそく、骨、米、乳、寿衣、紙、

 

7月22日(水)
銀座、京橋で展覧会をいくつか見てから、徒歩で茅場町方面、大久保智子の展覧会へ向かう。途中、ビルの地階にある喫茶店で食事する。

 

 

前面の開いた四角の黒い箱、あるいは背面のある四角の黒い枠が壁に設置されている。奥行きは数センチから20センチ程度だろうか。その内部には糸が張られている。幾本もの糸の一組はある角度で同じ色の数本が等間隔に並んでいる。それが別のいくつかの角度で何組か配置されている。正面からは、黒い枠で囲まれた色のついた線の構成として見え、糸と枠との接点を確認することにより奥行きも感じられる。作品によっては、糸と糸とが干渉して縞模様が見えたりする場合がある。その縞模様は、見る者の眼やからだの移動によって変化する。展示されているややちいさな作品のひとつに、その現象が顕著に見られた。斜めから作品に対すると、糸の奥行きはよりあらわとなる。

 

 

 

これらの作品の激しさは内奥に遠く、近づいたからといって伝わるような振動ではない。ただ、一本の、複数本の、各色の糸の張りを黒のなかに覗き見る。
糸は、一本ずつが独立していると勝手に思い込んでいた。ギャラリーの方との会話から、そうではなく、同じ色の一組は切断なく一本の糸で縫うように繫がっているのではないか、という疑問が湧いた。のちに、そうであることが判明する。作者は青森県出身で、幼いころから「刺し子」に親しんでいたということを思い出す。糸は特別なものではなく、市販されているキルト用のポリエステル製であるとのこと。細くて、張力をうしなってしまうことがどうしても頭にうかんでいた。ところが糸は強靭で、見られたくらいではびくともしない。

 

 

画廊からの発言 新世代への視点2026 大久保智子展「糸と色 2026」 会場:ギャルリー東京ユマニテ(東京都・茅場町) 会期:2026年7月20日〜8月1日

 

7月23日(木)
小川浩子の展示の最終週。空間がわずかに明るくなった気がするが気のせいかもしれない。作品として変わったのは、正面の壁に4つ並んだ正方形のところ。先週、面を上にして水平の状態で台に設置されていたパネルが壁面の左から3番目に掛けられ、その右にあった黒枠だけのパネルには、先週まではなかった綿布が張られ、面を上にして水平の状態で台に設置され、松煙煤と水の入った瓶を乗せている。すでに、松煙煤を含んだ水がはねて細かな点状の跡に多数覆われている。その上方のひび割れた瓶からのしずくは以前のように1か所ではなく2か所から生じている。それを見つめながら台のまわりをめぐる。しずくに集まったひかりは、ときに消え、ときにあらわれる。ひとつのしずくが瓶底を離れる。視線をゆっくり落下点付近へと移動する。泡がひとつできている。しずくを受け飛沫を放出している、松煙煤と水の入った瓶は、パネルの上に置かれている。したがってその下面には飛沫は届かず、空白として保たれる。そのことを考える。

 

 

 

 

会場の奥、窓のわきに、正方形の小さな黒い枠が針ピンにひっかけられている。
正面の壁に4つ並んだ正方形の右端には、枠の形跡と、枠を支えていた針ピンの穴がふたつ残っている。
「星取り法」とは、彫刻の技法のひとつ。壁にいくつも針ピンで留まっている、小箱に入るくらいのちいささの馬毛と小さな黒い玉の作品を前に作者が「これはあなたです」と話していたことを思い出す。

 

 

 

7月24日(金)
歩いていると雨粒が落ちてきた。折り畳み傘をバッグにしまって shimadamasafumi の展示会場へ入る。雷が鳴る。室内をみわたす。各所にちいさな黒い球体が配置されている。台の上に置かれていた印刷物の文面を読む。何か所かに打ち消し線が引かれている。
ひとつの壁の四隅にひとつずつ黒い球体が配置されている。その壁の横のでっぱりに、その作品の「指示書」が掲示されている。そのなかに、「四つの黒い球体を結ぶ線上、およびその線に囲まれた内側には、何も置かない」という一行があった。意識しなければただ「内側」と言って済ましてしまうかもしれないことに、まず四つの黒い球体を結ぶ線を引いている。そうしてから、その線に囲まれた内側に着目し、塗りつぶすことを拒むかのように想像を喚起し、そこに、何も置かないことを指示している。指示書は「作品設置者」へ向けてのものである。この場合の「作品設置者」は誰か。

 

 

その作品の左側の壁には、縦方向に長辺のある長方形の、壁の色よりすこしクリームがかった色のパネルに、縦横それぞれ6つ合計36個の黒い球体が規則的に配置されている作品。
白いパネルにひとつの黒い球体がひとつ、白いパネルに黒い球体がふたつ、それぞれ配置されている作品は、透明のアクリルケースに覆われて壁面に並んで設置されていた。黒い球体と白いパネルの接点。発生している影。アクリルケースの側面はすりガラスのような半透明になっている。側面から黒い球体を探すが視線は届かなかった。

 

 

予報では雷雨ということになっていた。その後雷は去り、雨も小降り。夕方だが外光が入り照明もある室内。
歩道に面したガラス壁近くには、白い台に対にして置かれた作品。穴が穿たれ金具のようなものが付いたコンクリートの厚い板のようなものが底面にある。ひとつは穴が8個見えるがもうひとつは6個しか見えていない。だがおそらくそちらも8個なのだろう。その上に、穴を結ぶ線上に黒い球体がそれぞれに、また、片方には白い球体、もう片方には鉄の球体が置かれている。球体を分つような位置に架けわたすように、片方にはなかの見えないかたまりが、もう片方には透明のかたまりが置かれている。見えないかたまり越しに球体を見ようとしても見えないが、球体はたぶんたしかにそこにある。透明のかたまり越しに球体を見ようとすると透過して見えているがすこしゆがむ。

 

 

奥の空間には、ふたつに塗り分けられた絵画のようなものが床に画面を上にして置かれ、そのひとつの角を黒い球体が支えている。絵画をはさんだその対角方向の床にも黒い球体は置かれている。付近の白い壁には画面の色がわずかに反射してうつっているかもしれない。そこへと至る手前の床に、円形の点線が目立つように置かれている。その横に掲示されていた指示書を読む。それは作品設置者に向けられたものである。すると、奥の空間の手前には大きな仮想の球体があり、見えている奥の空間には進むことができなかった。

 

 

配布されていた『黒い球体』という冊子と展示作品のデータなどの記された紙をバッグにしまって外に出る。駅まで歩く。傘をさしたかどうか忘れた。

C Record | shimadamasafumi 会場:Alt_Medium(東京都・高田馬場) 会期:2026年7月24日〜7月29日

 

7月31日(金)
先週展示に出かけて以来家にこもっている。ようやくバッグから『黒い球体』を出して読む。

 

言水ヘリオ(『etc.』発行)