2026年4月4日(土)
東京の京橋にあるギャラリー檜B・Cで「さとう陽子展「あん、くう」」を見る。11時半。看板が設置されてすぐに入室。ほかに誰もいない、あるいは、来場者のすくない状況で作品を見たかった。身の回りに生じた紙類などを、浅くてふたのない箱のような額のようなものにおさめた作品。太いグレーの部分が画面に屹立している大きな油彩の作品など。空間にくらべてそれほど多くはない点数が、余白をもって並んでいる。奥の部屋へ進むと、次の章へとうつったような、色彩のひびき、描線のながれ、編まれ。





◆さとう陽子展「あん、くう」 会場:ギャラリー檜B・C(東京都・京橋) 会期:2026年3月30日〜4月11日
同日
すぐ近くのギャラリー檜eへ移動する。「コスター理穂展」。黒ずんだこけし。釘で刺されヘナで染められて穴が無数にあいている。縫合された観葉植物の葉が、わずかに水の入った瓶にさしてある。顔にはでな化粧が施され、頭部は金髪、白いパンツを履いているのが透けて見えているこけし。まとっているのは、作者が着ふるしたいくつもの服の部分で構成されている衣装。同様の衣装で全身を包まれ顔も見えずに横たわるこけし。そしていくつかのことば。作者から作品についての話を聞く。個人的な状況のこと、衣服のこと、など。作者が糞掃衣のことについて述べた座談会の記録集をいただく。そこには「昔のお坊さんが、穢れや傷みで要らなくなったきれを集めて縫い合わせ、袈裟にしたそうなんです。(中略)見捨てられたものから何かを作る感性って人間に与えられた能力だなって、感銘を受けたんです」(『Chatterbox V ─4人が重ねるイメージと行為─』Chatterbox 実行委員会、2025年、p. 4、コスター理穂の発言)とあった。これらの作品をつくるために制作が行われた、ということはあるかもしれない。日々を生きてすごすにはこれらのものをつくることが欠かせなくてそれらが作品になったということはあるかもしれない。




◆コスター理穂展 会場:ギャラリー檜e(東京都・京橋) 会期:2026年3月30日〜4月4日
同日
いくつかの展示を見たあと、時間をつぶすため、喫茶店に空席を探すがどこも満席で、しかたなく丼ぶりもののチェーン店で親子丼を食べる。空腹ではなかったがコーヒーと同じくらいの値段だったので、これでよかったと思う。15時半ころ、16時からのさとう陽子のパフォーマンスを見るためにギャラリー檜B・Cへ戻る。すでに数名の来場者。だんだんとその数が増えていく。絵と壁の前をひとが往来する。ひとびとのすきまから作品が見え隠れする。午前中とは違って見える。作品は、そのようにあることを待っていたのかもしれなかった。
パフォーマンス。上下逆さまのひと、いきもの。前後もない。それでも、下が上になることはなく、うずくまっても、前に進むしかない。
4月10日(金)
目黒駅から歩いて、いくつかの展示を見る。途中、そば屋で食事。小綺麗でしかも気取らない、町に定着した感じの店。丁寧に盛り付けされたきつねそばが運ばれてきた。
金柑画廊では「早川桃代 ライトタイム ライトプレイス」が行われていた。設置されたテーブルのような台の上の、箱のなかの水色のギンガムチェック。そこにいくつもの影をおとす削られたもの。そのまわりに置かれたものも含め、立体的な存在感の、つくられたもの、絵から剝がれ置かれたようなもの。壁面へ目をうつす。絵に絵が描かれている。その絵は鉛筆で描かれている。その絵の絵は色鉛筆で描かれている。絵に写真が描かれている。その写真はここにはないようである。
下向きの茎のつるバラ。その先端が上を向こうとしている。ちいさなコップに釣り合わない長さのチューリップの切り花。その絵のチューリップとコップのまわりに帯びている黄色、チューリップとコップが放ったものか、反射したのか、それとも塗られた絵の具か、想像を巡らす。作品間の輪を行き来して迷う。進んでも戻っている。始まったのはいつか。始まったことはない。終わりはいつか。終わらない。




◆早川桃代 ライトタイム ライトプレイス 会場:金柑画廊(東京都・目黒) 会期:2026年3月20日〜4月12日
同日
目黒通りをバスで移動。雨が降っている。つよい風が吹きつけて、傘の操作に難儀する。前が見えないので足元を確かめながら進む。はじめて来る RISE GALLERY は大きな商業施設の裏に位置していた。あと数分で17時。ガラス張りの入口正面から室内の作品を眺める。ギャラリーのひとだろうか、作者だろうか、なかにいたひとりのひとと目が合う。「光藤雄介「暗鬼」」。
会場に入ると、空間はガラス越しに見えていた展示室、通路、奥の展示室、にわかれているようであった。壁はコンクリート、作品はワイヤーで吊られていた。このような場合、ワイヤーの存在が気になってしまうことがとても多いのだが、この展示ではワイヤーは壁にほぼ同化して見えた。通路には半円状に壁面の窪んだ箇所があり、その床面に画面を上にして大きな作品が置かれていた。奥の展示室には、壁面というより板状の柱のような部分がありそこにも作品は展示されていて、それでも異和を感じることがほとんどなかったのは、この会場の特性か、作者の展示の仕方によるものか。
手渡されていた作品データのシートを返そうとして、なんとなく会話がはじまる。その人は作者であった。描き方について。線と線のあいだは線をひくための定規の幅で決定されるということ。この作品は内から外へと線をひいていった。この作品は外から内へと線をひいていった。描き方の変化による作品の変化の話である。面を上に向けて定規をあてて線をひいていく、自分のからだは画面の周りをまわることになるという話。画面を上にして床面に置かれた大きな作品の前でその話を聞いて、線と線の交差部分が織物の様子にも見え、糸巻きを連想し、描くことがぐるぐると糸巻きすることであるような意識はありますか?と尋ねる。線は紐のようであるかもしれないという返答。光藤の作品はすべて垂直線と水平線で構成されている。ところが、ある作品では、線と線の干渉によるものだろうか、線としてはひかれていないはずの円が見えるという現象が起こっている。
なにを描くかを決めてそれを仕上げるという方法ではない制作。どう線をひいていくかの手順を設定する。それはルールに縛られはじめるということでもあるのかもしれない。設定を遂行する。それがなにかになっていることがある。作品になる。そこになにかしらのものごとの反映を作者は発見したりするかもしれない。作者の目と画面との距離。画材と画面との距離のない接触。媒介する手。その手の所持者とその所持者。





◆光藤雄介「暗鬼」 会場:RISE GALLERY(東京都・碑文谷) 会期:2026年3月28日〜4月18日
4月12日(日)
先月の日記に掲載した、秋野ちひろさんの記事の確認をしているなかで、「Writing」の作品に関するご自身のSNS投稿があることをギャラリーの方が教えてくれた。その投稿では「タリーマーク」が言及され、映画のなかの、刑務所の被収容者が日々の数を数えるため壁に刻む線に着目している。
絶望ってどういうことかよく考える。絶望したら。それでも生きていけるのならばそれは絶望したのではなく絶望的ということにすぎないのではないか、など。絶望は望みのない状態であるのだろうに、語に望という字が残る。消滅しないように埋め込まれているということは、死と似て、体験不可能な状況か。「死ぬのが怖いから生きている」という若者から寄せられた悩みを賞賛した深沢七郎の本をむかし読んだ。それから、テオ・アンゲロプロスの『永遠と一日』という映画と、その題名。それらのことも、絶望しても生きているということと、関係があるかもしれない。やることのない残された日々。些事が生じ、それに従事することを、なにかにあらがい数を数える行為として行っている。
4月16日(木)
最寄駅に着いてすぐ、スマホを家に置いてきたことに気づく。今日これから必要になるか確認し、なくても大丈夫なので切符を買って電車に乗る。初台へ。喫茶店に入る。近所の常連と思われる方々と店の方のやりとりを聞き流しながら、注文したブレンドコーヒーとツナのトーストを待ち、用意されたそれを口に運ぶ。トーストに付いてきたゆでたまごをテーブルの縁で叩いた瞬間、おすわりをしていた犬が甘えた声を発してわたしの方に近寄ってきた。あきらかにゆでたまごを欲しているが、知らん顔をする。その後も犬はこちらを向いたまま。食べ終わり、本を読む。犬の飼い主が、ゆでたまごが大好きなんです、と去り際に話しかけてくれる。ひとりも客がいなくなり、5ページほど読んでやめる。立ち上がって食器類を店の方のそばへ運ぶ。店の方は新聞を読んでいる。
Open Roomで「田代つかさ個展 Ghost, my ghost.」を見る。写真と短歌、および映像の展示。写真一点に短歌一首で一組、と勝手に思い込んでいたが、来てみたらそうではなかった。田代つかさ、篠田優、oono yuukiによるトークを聞く。田代つかさの映像上映とともにoono yuukiの即興演奏が行われる。
帰宅してインスタントコーヒーにお湯を注ぐ。即興演奏を聞いた、思い出すことのできない10分か20分。映像とギターの音がそのときをはるか遠方へ運んだ。そのあいだに通り過ぎていった影。もう戻らない場面。購入した、展覧会と同じ題名の写真集を開く。紙は黒で覆われ、写真がイメージを開いている。短歌が黒をくり抜き白くあらわれている。「見えていなかったものが見えてしまった瞬間」(田代つかさの文章より)。幽霊は存在するかしないか。イメージにうつったものは存在したかしなかったか。今日、oonoさんが教えてくれた詩人、菅原克己の詩集を古書でみつけて注文する。
◆田代つかさ個展 Ghost, my ghost. 会場:Open Room(東京都・初台) 会期:2026年4月16日〜5月20日
4月18日(土)
新宿駅のホームで乗車予定の電車を待つが時間になっても来ない。5分後、隣の線に、来るはずのない電車が到着。1時間遅れの電車とのこと。それに乗る。逗子行きだったが、途中で急遽大船行きに変更された。遅延で運行が混乱している。大船駅で降車するのでそのまま乗っていた。大船駅で立ち食いそばを食べてモノレールに乗る。しばらくすると遠くに海が。目白山下という駅で下車。駅近くにある、ART & CAFE 湘南くじら館で「伊藤久也「像を結ぶ」」を見る。上部がすぼまって先端に頭らしきものがあることから、人型であると見える細長い木の作品が、来場を迎えるようにこちらに向いて林立している。巡っていると、部屋の隅に本棚があり、古書を販売している模様。4冊選ぶ。奥の部屋に移動して本の会計を済ませ、その部屋の展示作品を眺める。数々の作品にはいくつかの系統のような差異があり、それによってひとまとまりになって展示がなされている。作者が会場の方と話をしながら、テーブルの上で小さめの木を彫っている。作品は展示されて留まっているというより、いまもどんどん生じているところなのだ。それを横目に、並んでいる作品の前をゆっくりと通る。入口からずっと、囲まれて、あいだをさまよっているようである。下部が台座の役割をしているのか、材としての角張りを残したままになっているもの多数。上に向かうにしたがって、やや抽象的な人型へと変容していくさまは、それが「像を結ぶ」という言い方と関わっているのかなとも思う。腰をおろして話に加わる。素材としている木の種類、枝や幹にはある長さがあるからということ、どのように彫り進めていくか、かつての映像作品のこと、つげ義春のことなど。8cmほどの、手のひらに入ってしまうようなちいさな作品があった。自分のそばにそれがいつもあることを想像する。息絶えたり焼かれたり埋められたりすることがあったなら同行してくれるだろうか。近づいて、価格を確認しようとして手を伸ばすと、突然その手がはげしく震えて倒してしまった。戻そうとするのだが震えが止まらない。
そこから江の島の方へ歩き、ひさしぶりに会う友人と海を眺める。球技に熱中するひと。波打ち際で足を濡らす高校生。トンビに食べ物をとられた誰か。気の早い水着姿。


◆伊藤久也「像を結ぶ」 会場:ART & CAFE 湘南くじら館(神奈川県・目白山下) 会期:2026年3月6日〜4月26日
4月20日(月)
3月28日の日記で記した、向井三郎さんとの会話で話題にのぼったテリー・ライリーの曲は Sun Rings という曲であることがわかった。聞いてみる。
4月24日(金)
朝。カーテンを開ける。自然光のもと、伊藤久也さんのちいさな作品を写真におさめてみる。そのようなものを置くことにしている台の上。さまざまなものを並べてある棚。孤立している状態と雑多にまぎれている状態。


言水ヘリオ(『etc.』発行)
